タイの芸術・文化・創造

タイで就職したWEBデザイナーの日記

屋台が無くなり、バンコクの歩道の辛みが弱くなった 2017-08-17

無秩序な首都に要求を課すための、タイ軍事政権による取り組みの新たな矛先に向いています。

最近のバンコク市職員による取り締まりは、首都の暑く湿気の多い歩道の名物となっている、タイ特有のヌードルや辛いトムヤンクンスープなどあらゆるものを売る屋台の商人たちに及んでいます。金属製の折り畳みテーブルとぐらつくプラスチック製の腰掛けがある屋台は、財布を気にする地域の人々や冒険好きな旅行者にとっての頼れる美食の場となっています。

「屋台の食べ物は生活の大部分を占めています」市の中でも最先端を行くトンロー地域で10年以上暮らしている、株式仲介人のノン・ノンティスクンさん(29)は言いました。「毎日高級なレストランで食べている人だって、屋台の食べ物はやめられませんよ。早いし、美味しいし、半分の値段もしませんから。」
 市職員は屋台の食べ物を違法の迷惑行為と認識しており、次の月曜までに立ち退くよう行商人たちに警告してきました。彼らは、立ち退きはすぐに他の地域にも広がるだろうと言っています。2014年のクーデター以降タイを治め、悪徳政治家や歩道の混雑に至るまでを排除し、タイ社会を綺麗にするよう圧力をかけてきた軍事政府によって、市職員たちは取り締まりを強いられています。
 この流れは、街の市場からビーチパラソルや値段を上げた宝くじまで全ての店に対して、時に不器用な取り締まりを行う結果となりました。目撃者は言っています、失脚した政府とその人民主義の思想を支持していた多くの貧困層が、軍事政府が支援する運動の矢面に立たされており、歩道を綺麗にする取り組みは、商人と労働者階級の客に最も強い打撃を与えるでしょうと。
 腐敗、売春、汚染、交通安全などに対するタイの取り締まりは、軍事政府によるものですが、つかの間で悪名高いものです。しかし、市の職員は乱暴に説得にあたっています。
 バンコク地区の長であり、管轄区内の歩道を空にする仕事を課されているブーンターム・フイプラサートさんは、交通の混雑や生ごみの蓄積と闘うため、屋台の商人は立ち退かされていると言います。
 取り締まりが近所の街に広がる次の月曜までに、トンローの90の商人と屋台は立ち退かなければならないと、ブーンタームさんは言いました。違反者には最高2,000バーツ(約6,620円)の罰金が科せられます。
 「ただ歩道で商売をしなければいいのです」ブーンタームさんは言いました。「歩道で物を売っている人は、場所の使用料を払っていません。今はあまりにもそういう人が多いので、私たちも社会を整理しなければならないのです。」
 事実、食べ物の商人たちは、市の職員に対して内密に毎月少額の支払いをしていると言います。このような警察や軍との結びつきのある実力者への支払いが、バンコクの無秩序な闇経済を現実にしているというのは、公然の秘密なのです。ブーンタームさんは、公式でないこのような支払いが起こっていることに気付いていなかったと話しました。
 スーチン・ワナサトルさんは、トンローの歩道で20年以上、カオカムー(豚足煮込み)を40バーツ(約130円)で売ってきました。47歳の彼は、近隣の商人と同じ額である1,000バーツ(約3,300円)の支払いを毎月続けるため、真面目に努力してきました。彼は現在、歩道の売り場から1.5キロメートル離れた場所に本当のレストランを開店する準備をしています。35,000バーツ(約11万6千円)の賃貸料は、3人の屋台商人仲間で分割して支払うつもりです。
 「この地域に常連のお客さんがいるので、私はここに留まらなければいけません」スーチンさんは言いました。「娘を学校に行かせるために、私にできることは何でもしています。彼女が卒業したら、バンコクの外に引っ越そうと思います。ここでの生活は厳しいです。」

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 評論家は、政府は商人たちを援助し、政府の規制や分譲マンション、ショッピングモール、オフィスビルの再開発によって失われている、バンコクに活気を与える独特の無秩序を一部残すべきだと主張しています。
 屋台のある地区に対する運動が定着すると、旅行客はイモムシの素揚げや焼いた豚の腸、伝説的に臭いフルーツのドリアンを見かけることも無くなります。お洒落なバーやレストランが屋台のように料理をビニール袋に入れ、口を輪ゴムできつく縛って渡してくれることなど無いでしょう。
 「私は仕事を無くしたように感じていて、これから何をすれば良いかも分かりません」コーヒーを30バーツ(約99円)で販売している、39歳のウボルワッタナ・ミンクヮンさんは言いました。「トンローの賃貸料を払う余裕はありません。」
 「市の役員に、理解と援助をお願いしたんです」彼女は言いました。「みんな『ダメ、ダメ、ダメ』と言います。もう指令を受けてしまったと言うのです。」

超就職氷河期時代に大学を卒業したので、地元の中小企業の町工場しか就職先がありませんでした。あまり給料が高くない割には重労働だったので、1年働いた頃から夜間はWEBデザインの専門学校へ行き、WEBデザインのイロハを習得。町工場を3年務めた後は、上京して(といっても神奈川県川崎市ですが)今では有名なWEB制作会社に就職しました。始めは学生アルバイトと同じような待遇しかありませんでしたが、徐々に仕事が出来るようになってくると大きなクライアントを担当させてもらえるようになりました。そして海外のクライアント様(タイとシンガポールの日系企業)を担当するようになってから海外に興味が持ち始め英語を習得しました。32歳で退職し、1年間の放浪を経てタイでWEBデザイナーとして就職しました。

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